必然的な残酷さはある種の救済

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文学は人間の描写を試みることだとか言われる。それが時代を問わない人間性をテーマとして扱った文学であればあるほど普遍性があり、人間賛歌だとか、まぁ色々良い事を言われるのだろう。

こう言う通例の”名作”とは逆の位相にあるっぽい、そんな感じがする文学作品、文学作品というか文学作品の作り方を思いついた。

1.登場人物のパーソナリティ、目標などを決める
2.それと”全く無関係なものを”、目標、主人公がうまくいくかどうかに確率的に関与させる

というわけだ。具体例をあげよう。
主人公の目標:意中の相手を落とす
そして、もしその日の天候が晴れ(これは作中ではなく、作者の世界での話)
ならば、物語は良い方向に進む。
もしその日の天候が雨ならば、物語は悪い方向に進む。
などなど、条件分岐を増やしていく。んで、例えば
執筆中に大地震が来た場合、主人公は事故死する。
こういう条件があると尚、良いだろう

これはどんな名作よりもある意味において、ラディカルに人間の実存を描いてはいないだろうか。

どんな悲しい物語であろうとも、”それが脈略のある意味に基づいて悲劇”であるという事。名作というのはこれを要請される。が、脈略がある時点でそれは一種、救われていると言えないだろうか。例えその結果が悲しいものだとしても、主人公は、あくまで実在の”些細なこと”とは独立に、物語として、自分の選択として、名誉ある死を選ぶことができる物語。それに至るプロセスが美しい物語。文学はそう言った地平を描く。(正確には、”文学がそういう地平を描く”のではなく、大学的なノリの研究は、意味を求める私たちの読解が、文学を全て”この地平にする。”)しかし、現実はどうだ。エヴァのシンジはもう少し運が悪かっただけで序盤でヘリに潰されて死んでいるし、月が落ちているデスノートを見落とすかもしれないし、ルフィはたまたまゴムゴムの実を気分で食べないかもしれない。そんなまったくもって何の意味も持たない、”話として描写されない、面白くない領域の”残酷さ。意味のある名作の物語というのは、かつて五万とあったであろう、この方面の残酷な実存を描写するという試みを、無視してきている。(カフカ:変身はこれを抽象的に表そうとしたとすると納得感がある。実際あの話は個人的に、全く面白くなかったし。)
そういう、”全く持って実存において、脈略のない、関係ない、心象風景のシンボルでも何でもないものがただただ俺たちの周りには、有る。”
この手法は、その偶然性の残酷さを描ける気がするのだ。

上で挙げた主人公は、それが全部うまくいけば(ずっと晴れならば)歴史的にも称賛され続ける、物凄く美しい物語を構成するとしよう。そして、エンディングはもうすぐ。
で、あろうとも。

この世界で地震が起きれば、直前で、何の意味もなく、事故死するのである。
そして私たちはそういう存在ではないだろうか。

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